作家・五木寛之さんが親鸞聖人の教えに関心を持ち、執筆活動を休止して京都の龍谷大学に通われたことがあります。もう四十年ほど前、五木さんが四十代のときです。
そして、それ以後、『大河の一滴』や『他力』を初め多くの書物を著わし、二〇一〇年にはずばり『親鸞』という名の三部作を世に出したのでした。
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その五木さんがある出版社の企画で「うらやましい死に方」と題して原稿を募集したのが一九九九年。それから十四年が経ち、超高齢社会を迎えるに至ったとき、改めて同じ題で原稿を募集。そのうちの選ばれた一編をご紹介します。
寄稿されたのは高田俊彦さん[金沢市 七六歳]。平成八年三月十六日、母やよさんがリウマチによる多臓器不全のため亡くなられました。享年は八十一歳でした。
「モルヒネも輸血もそろそろ限界」と言われていた病院から危篤を知らせる電話が入ったのは十四日のお昼。急いでかけつけると、やよさんは次のように仰いました。
「また来たか、もう来るなと言うて置いたがに。おらの年取った妹たちも来たし、お前ら子どもも、また来てくれて、生きている者の方が、おらよりも大変やなあ。
前から話して置いたとおり、臨終やからと騒ぐことはないぞ。平生業成やぞ。お文(ご文章)にあるやろ。おらは、もうお念仏のお陰で正定聚や。だからして、臨終に良いも悪いもない。ひとの臨終をとやかく言うもんでないぞ。おらの臨終は阿弥陀さまにまかせたがや。さあ早う家へ帰って休んでくれ、運転には気をつけてな」
やよさんはこう言い終えると念仏を唱えながら、目を閉じられました。昏睡というより熟睡に見えたそうです。しばらくして、また目を覚ましたやよさんは、
「俊、お前、まだおったがか。あ、この前、会いたい者がおったら呼ぼうかと言うてくれたが、それはいらぬぞ。会う縁にある者にはもう会えた。倶会一処と言うぞ。会う縁にある者にはまた会える。ほんとうに誰も呼ばないでくれ。(略)
これは大事なことやが、お念仏や。お念仏は人それぞれが戴くもの、無理せんでいい。お前もご縁をいただいているのやからな。お念仏がひとりでに湧いてきて、それに押されて親さまの懐にとぼしこむ(金沢弁でつきすすむの意味)。そんな心になるものや。おらは、そうして阿弥陀さまにすっかりまかせてしもうたがや」
俊彦さんは母の言葉に従い十四日の深夜に病院を出ました。その二日後、やよさんは息を引き取られました。俊彦さんの妹さんが所用で枕辺を離れた間だったそうです。
やよさんの臨終には誰も立ち会っていないということでした。
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親鸞聖人の書かれたお手紙[ご消息一]に
真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。そのゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。
とあります。
日頃からお聴聞を重ねられたやよさんは、如来さまよりご信心を戴かれ、
この聖人のお手紙の通りお浄土に参られたのでした。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。