2017年8月の朗読法話「死を受容した少女」

手元に『死をどう生きたか~私の心に残る人びと~』と題された古びた新書本があります。著者は日野原重明さん。昭和六十二年に求めているので三十年経っています。
この本は日野原さんが七十歳の頃に、ある製薬会社の冊子に連載していたものをまとめたとありました。内科医として四十五年余り携わってきて、主治医としてお世話をし、亡くなられた六百名の患者さんの中で、その方々の死を通して人間の生き方を教えられ、命の尊厳を印象付けられた十八名の方が紹介されています。

その最初に記されていたのが、十六歳で死を受容した少女でした。
昭和十二年三月に京都大学医学部を卒業して、そのまま病院に残り、最初に医局長から担当を命じられたのが彼女との出遇いでした。四月中旬に母親に連れてこられ、検査の結果、結核性腹膜炎と診断され入院。彼女は貧困な家庭に育ったので、小学校を出ると彦根近くの紡績工場で母と一緒に働いていたそうです。[当時の義務教育は小学校まで]

梅雨のころになると熱が高くお腹を壊す症状が続き、腹水も貯まってかなり苦しい状況でした。母親は生活費や入院費をねん出するために働かなければならず、来院して付き添うどころか、二週間に一回くらい見舞いに来るのが精一杯でした。
その頃、クリスチャンの日野原さんは日曜日には教会の礼拝に出席し、病院を離れていましたが、ある時、同僚から、「日野原先生は、日曜日だけはいつも病院に来られないのよ」と少女が寂しそうに言っていると聞きました。それからは日曜日でもかならず病棟に先に立ち寄り、患者さんに会ってから教会に出かけることにしたそうです。そして、その後の八十年にわたる習慣となったのでした。
七月に入ると容態はますます悪化し、嘔吐が続き血圧も下がり、モルヒネを注射。「今日は日曜日だからお母さんが昼から来られるから頑張りなさいよ」と激励すると少女は大きな眼を開いて言いました。「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも来て頂いてすみません。でも今日は、すっかりくたびれてしまいました」と言い、しばらく間を置いたのち、「私は、もう死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います」と。そしてまたしばらくして「先生、お母さんには心配をかけ続けで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんに、よろしく伝えてください」と頼み、合掌したそうです。息を引き取ったのはそれから間もなくとのことでした。。

日野原さんは「なぜあの時、安心して成仏しなさい」「お母さんには、あなたの気持ちを充分に伝えてあげますよ」と言えなかったのか。そして、脈を診るよりも、どうしてもっと彼女の手を握ってあげなかったのか、と振り返っておられます。
「死を受容することは難しい。しかし十六歳の少女が死を受容し、美しい言葉で訣別したその事実を、あとからくる医師に伝えたい」と日野原さんは述べておられます。

『仏説無量寿経』に「独り生れ独り死し、独り去り独り来る
(独生独死独去独来)」とあります。誰も付き従うもののない死
の実相を、この少女の悲しい別れは伝えてくれています。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。

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