三ケ月に一度、警察病院[天王寺区]で糖内科の血液検査を受けています。採血の受付が八時に始まりますので、自転車で元気に一心寺の前の坂を上がっていきます。この坂を一気に上がれるかどうかが私の健康のバロメーター。
受付時間にはもう既に五十から百名の人が来ておられ、この方々も案外お元気なんだなあと自分を含めて苦笑い。看護師さんがてきぱきと採血して下さるので、いつもスムーズで八時半頃には終わります。会計を済ませた後、院内のコンビニでサンドウィッチとコーヒーを買い、広い玄関ロビーのベンチで遅い朝食を取るのが定番で、ゆっくりと心安らぐとき。
◇
そのベンチに座ると正面にエスカレーターが眺められます。二階には私がお世話になっている内科を初め、婦人科、泌尿器科、耳鼻科などがあり採血も同じフロア。だから、多くの方がこれに乗って二階へ上がっていきます。まさに途切れることなく。
その流れを見ていて、この世の縁が終わった方がお浄土へ参られる姿のようだなあと思っています。男女は勿論、老若も含めて「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをは」(歎異抄)られた方々が次々と。そして、その奥に並行して下りがあり、また診察を終えた方々が途切れることなく降りて来られます。この方々はお浄土に往き仏となった方々の還相(げんそう)の姿と見えてくるのです。
お浄土へ参られる方も毎日大勢居られるが、この世にて悩み蠢く私たちを放っておけないと手を差し伸べて下さるおびただしい数の仏さまがこのように来られると連想する光景なのです。
◇ ◇
先月、Оさんのお宅で一周忌法要を勤めさせて頂きました。若いお孫さんも迎えてくれて和やかな雰囲気。お勤めするお経の紹介をし、金子みすゞさんの童謡の一節、「忘れていてもほとけさま いつも見ていてくださるの だからわたしはさふいふの ありがとありがと ほとけさま」の気持ちでこのひとときをお過ごし下さいとお伝えしました。
合掌しお念仏を皆さまと申しますと、Oさんが昭和二十年代の若い頃に下関に親戚を頼って出て、漁業に従事し稼ぎも年齢の割には良かったこと。のちに職場が瀬戸内海に移り、何艘かの船を長く連ねて運搬の仕事をされていたこと。天気の良い日は潮風を受けて心地よい時間を過ごされたお話が瞬時に思い出されました。
龍谷大学におられた故浅井成海先生は「還相(げんそう)回向とはお念仏申させていただき、お念仏を聞かせていただく中に、いろいろ会話をしたり、思い出させて頂くことではないでしょうか」と仰っています。
往ったきりでなく、またこの世に還ってきて私たちの目には見えないけれど、私たちに寄り添い、心を汲み背中を押し、仏の道に誘って下さる大切な方の働きに気づかせて頂きたく思います。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
11月の朗読法話「老医に患者のなき日あり」
時折、五木寛之さんが書かれた本を読みます。一九三二(昭和七)年生まれですから、今、八十五歳。八十歳を超えてからのエッセーを主とした発刊の多さに驚きます。
◇
この夏、『孤独のすすめ~人生後半の生き方~』が出ました。
老いに伴って身体が思うように動かず、外出もままならない。訪ねてくる人もなく、かつて電話を楽しんだ友だちも、耳が遠くなったからと言って掛けてくることもこちらから掛けることもなくなった。毎日が何曜日でもよくなり、テレビも楽しい番組がない。世の中からなんとなく取り残されてしまったような寂しさ。たまに孫が遊びに来てもかつての可愛い面影はなく、ケータイばかり触って「じゃあ、帰る」と言って出ていく。否が応でも孤独と向き合わざるを得なくなる。
◇
五木さんは孤独だからこそ、孤独を恐れず、孤独のすばらしさを知り、孤独を楽しみませんかと提案します。
例えば、あまり使わなくなった机の引き出しを開けてみる。ひとつのマッチが出て来た。そのマッチはかつて青春時代によく通った思い出の喫茶店のものだった。あの時に出遇った人、観に行った映画、訪ねた奈良や京都の神社仏閣。当時、流行っていた歌などが次から次へと懐かしく蘇る。後ろを振り返り、ひとり静かに孤独を楽しみながら、思い出を咀嚼(そしゃく)する。回想は誰にも迷惑をかけないし、お金もかからない。繰り返し昔の楽しかりし日を振り返り、錆びついた思い出の引き出しを開けることは、周りからは何もしていないように見えても、それは実に「アクティブな時間」だ、と。
クルマ好きだった五木さんはシフトダウンしてスピードは落としても、トルクはおとさないと言います。むしろ心のトルク(底力)は高まっていくと。
◇
親鸞聖人が五木さんと同じ八十五歳の時に書かれたお手紙に「目もみえず候ふ。なにごともみなわすれて候ふうへに、ひとにあきらかに申すべき身にもあらず候ふ」と記しています。老いをしみじみと味わっておられたことが伝わってきます。また、当時京都に住んでおられた聖人に付き添っていたのは末娘の覚信尼だけで、妻の恵信尼や他の子どもたちは遠く越後で生活していて聖人は寂しさの中にあったのでした。
しかし一方で、聖人は七十六歳の時に『浄土和讃』と『高僧和讃』を著わし、七十八歳で『唯信鈔文意』。八十五歳では『一念多念文意』、八十八歳のときには『尊号真像銘文』『正像末和讃』と、私たちが聖人のみ教えを知るうえでなくてはならない大切な書物や和讃を次々と著わされます。これは孤独の中での心のトルクの高まりがあったればこそと思われます。法要の終わりに皆さまと一緒に唱和する「恩徳讃」は『正像末和讃』にある一首です。
◇
五木さんはこの本で「春愁や老医に患者のなき日あり」という句を紹介されています。若いころは待合室に多くの患者さんが並んだこの医院も、老いとともに患者は別の医院を選ぶようになった。白衣の老医師がしみじみと来し方を振り返り、寂しいけれどある意味で幸せなおだやかな時間を過ごしている。これは高齢者ならではの句だと。
秋の深まりを背景に〈自らの老い〉と対峙してみては如何でしょうか。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
10月の朗読法話「かへすがへすうれしく候ふ」
秋を迎えますと浄土真宗の寺院では親鸞聖人のご命日法要として報恩講を勤めます。浄満寺でもこの十八日(水)午後二時からご講師に若林唯人先生(東淀川区、光照寺衆徒)をお招きし勤めさせて頂きますので、是非お参り頂き、親鸞聖人のみ教えにお出遇い下さい。
◇
さて、親鸞聖人が書かれたお手紙が四十三通現存していますが、その中に
明法御房の往生のこと、おどろきまうさずにはあらねども、かへすがヘすうれしく候ふ。鹿島(かしま)、行方(なめかた)、奥郡(おうぐん)、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。
と関東に居られた門弟の明法房が往生したことについて、「うれしく候ふ」「みなの御よ
ろこびにて候ふ」と仰っています。往生されたことが悲しみでなく、なぜうれしいという
のでしょうか。
◇
仏道修行は仏となること、成仏を目標とします。親鸞聖人も比叡山においてただひた
すら、仏となることを目指して修行されました。その間、二十年。しかし、仏となるこ
とは出来ず、当時、東山にてお念仏による万人の救いを説いていた法然聖人のもとを訪
ね、その教えに感化され、その後法然聖人が説かれる阿弥陀如来の救いにお任せする他
力の道を歩まれたのでした。
聖人の他のお手紙には
他力は、本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり
と書かれています。阿弥陀如来の「必ず救う、我にまかせよ」という喚び声を聞き、そ
の救いにすべてを委ねるとき、往生、つまり、お浄土へ往き、仏として生まれ変わること
が決まっているので、こちら側のはからいは全く要らないというのです。
◇
平成二十二年三月二十五日(木)。夕食を終えてゆっくりしているとき電話が鳴りました。出ると聞き覚えのある坊守さんの声で「住職が今、参られました」と。この時の声は忘れられません。体力が失われ手術に耐えられるかどうか判断に迷う中、ご本人が手術をしてもらおうと決断し臨んだ心臓の手術でしたが、その最中に息を引き取られたのです。長年のお付き合いもあり、坊守さんは病院から連絡して下さったのでした。
「住職が今、参られました」は寂しい言葉ではありますが、日頃からお念仏の生活を喜ばれていたお味わいの中からの確かな往生と受け止めさせて頂きました。享年五十九歳でした。
◇
聖人から直接お念仏のみ教えを聞き続けていた明法房ですから、如来さまからご信心
を賜った人は如来の救い(摂取)のひかりに収め取られまいらせて、間違いなくお浄土に
参り、仏とならせて頂くと受け止めておられたことでしょう。そのこころを汲んで親鸞
聖人は「明法房よ、良かったね。間違いなく如来さまのもとへ参られたのですね。良かっ
た良かった。私もまた続いて参ります。また会えることを喜ばせて
もらいます」と申されたのでした。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
9月の朗読法話「安楽死という選択肢」
還暦の記念にと人間ドッグを受け、オプションに付いていた検査で前立腺がんが見つかったのが二〇一一年末。二回の追加検査で微妙に数値が上がったことと若かったこともあり、一二年の夏、お盆が終わってから手術を受けました。それから五年。先月までの健診結果も良好でおかげさまで一つの節目を通過することが出来ました。
◇
テレビドラマ『おしん』や『時間ですよ』、『わたる世間は鬼ばかり』の脚本家として有名な橋田壽賀子さんの近刊本に『安楽死で死なせて下さい』(文春新書)があります。
はじめに「自分が死ぬなんて長い間考えたこともなかったのに、九十歳になって仕事がだんだん減ってきて、ほかに考えることもなくなったら、『あ、もうすぐ死ぬんだ』と考えるようになりました」と述べられます。
次いで「夫にはとうに先立たれ、子どもはいません。親戚づきあいもしてきませんでした。会いたい友だちや思いを残す相手もいないし、生きていてほしいと望んでくれる人もいません。天涯孤独の身ですから、『もう、いいや』と思っています」と。
◇
安楽死と聞くと過激に受け取られるかもしれませんが、橋田さんは言います。「この人にこれ以上惨めな思いをさせたら、本当に死に切れないに違いない。まだ惨めさの見えないいまのうちに死なせてあげることが、この人の幸せだ。そう思ってくれることが、安楽死だと思います」と。「簡単に言えば私は、〈安〉らかに〈楽〉に死にたいのです」とも。
◇
このように仰る橋田さんですが、十年前から脳の難病を患い、徐々に身体を動かすことが難しくなっているある読者(四十八歳)が「私も安楽死を希望している」と訴えると、「あなたはまだ四十八歳。あまりにも若い。『あなたにもっと生きていて欲しいと望む人』が、周りにいるのではないですか。もしくはあなた自身にとって『このひとのために生きていてあげたいと思う誰か』が周りにいるのでは?だとするなら、たとえ安楽死の法制度があったとしても、あなたは生きるべき人だと思います。(中略)私が安楽死を望む理由のひとつには、生きていることを誰からも望まれないという境遇もあります。無責任かもしれませんが、すでにじゅうぶん生きた私とは、そこが違うと思います」と、誰かれなく安楽死を勧め肯定しているわけでもないと述べられます。そして、「お誕生日を迎えるたびに、一年生きてきた意味と喜びを噛みしめつつ、自分の死と向き合うといいです。自分が生まれた日に自分の死について考えるって、なかなか素敵な習慣じゃないかしら。それがイヤな人は、いままで通り何も考えず、普通に死ねばいいのです」と。
◇
私たちは年齢を重ねると、時に親しい方の出棺のお見送りに立ち会うことが多くなります。列車にたとえるならホームで列車を見送るシーンです。見送った後、「只今見送られた皆さま方、次にこのホームに参ります列車にどうぞお乗りください」とアナウンスされていることに気づきたく思います。
お釈迦さまは「身自らこれに当たる、代わるものある
ことなし」(『仏説無量寿経』より)と説かれています。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
2017年7月の朗読法話「正定聚(しょうじょうじゅ)の位 ~往生すべき身とさだまるなり~」
作家・五木寛之さんが親鸞聖人の教えに関心を持ち、執筆活動を休止して京都の龍谷大学に通われたことがあります。もう四十年ほど前、五木さんが四十代のときです。
そして、それ以後、『大河の一滴』や『他力』を初め多くの書物を著わし、二〇一〇年にはずばり『親鸞』という名の三部作を世に出したのでした。
◇
その五木さんがある出版社の企画で「うらやましい死に方」と題して原稿を募集したのが一九九九年。それから十四年が経ち、超高齢社会を迎えるに至ったとき、改めて同じ題で原稿を募集。そのうちの選ばれた一編をご紹介します。
寄稿されたのは高田俊彦さん[金沢市 七六歳]。平成八年三月十六日、母やよさんがリウマチによる多臓器不全のため亡くなられました。享年は八十一歳でした。
「モルヒネも輸血もそろそろ限界」と言われていた病院から危篤を知らせる電話が入ったのは十四日のお昼。急いでかけつけると、やよさんは次のように仰いました。
「また来たか、もう来るなと言うて置いたがに。おらの年取った妹たちも来たし、お前ら子どもも、また来てくれて、生きている者の方が、おらよりも大変やなあ。
前から話して置いたとおり、臨終やからと騒ぐことはないぞ。平生業成やぞ。お文(ご文章)にあるやろ。おらは、もうお念仏のお陰で正定聚や。だからして、臨終に良いも悪いもない。ひとの臨終をとやかく言うもんでないぞ。おらの臨終は阿弥陀さまにまかせたがや。さあ早う家へ帰って休んでくれ、運転には気をつけてな」
やよさんはこう言い終えると念仏を唱えながら、目を閉じられました。昏睡というより熟睡に見えたそうです。しばらくして、また目を覚ましたやよさんは、
「俊、お前、まだおったがか。あ、この前、会いたい者がおったら呼ぼうかと言うてくれたが、それはいらぬぞ。会う縁にある者にはもう会えた。倶会一処と言うぞ。会う縁にある者にはまた会える。ほんとうに誰も呼ばないでくれ。(略)
これは大事なことやが、お念仏や。お念仏は人それぞれが戴くもの、無理せんでいい。お前もご縁をいただいているのやからな。お念仏がひとりでに湧いてきて、それに押されて親さまの懐にとぼしこむ(金沢弁でつきすすむの意味)。そんな心になるものや。おらは、そうして阿弥陀さまにすっかりまかせてしもうたがや」
俊彦さんは母の言葉に従い十四日の深夜に病院を出ました。その二日後、やよさんは息を引き取られました。俊彦さんの妹さんが所用で枕辺を離れた間だったそうです。
やよさんの臨終には誰も立ち会っていないということでした。
◇
親鸞聖人の書かれたお手紙[ご消息一]に
真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。そのゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。
とあります。
日頃からお聴聞を重ねられたやよさんは、如来さまよりご信心を戴かれ、
この聖人のお手紙の通りお浄土に参られたのでした。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
2017年6月の朗読法話「いそぎて信心決定(しんじんけつじょう)して」
浄土真宗の中興の祖といわれる、第八代の宗主・蓮如上人(一四一五〜一四九九)は多くのお手紙をご門徒の皆さまに届けて伝道に努められました。これらのお手紙を編纂しまとめたものを『御文章』(お東では『お文』)と呼び、親しまれています。
例えば「朝(あした)に紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨となれる身なり」という白骨の御文章などは今までにお聞きになったことがあるかもしれません。
◇
上人の最晩年、八十四歳の時に書かれたお手紙に
一日も片時(へんじ)もいそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定(いちじ
ょう)して、そののち人間のありさまにまかせて、世を過ごすべきこと肝要なり
とみなみなこころうべし
とあります。
意味は
一日でも、いやわずか数時間でも良いので、いそいで信心を頂戴して、この度の
往生極楽、つまり、お浄土に生まれて仏さまとならせて頂くことを確かなもの
にしましょう。その縁に遇うたならば、そののちは笑いあり涙ありの人生を、
人間のありさまにまかせて送らせて頂くことが大切だと皆さん心得て下さい。
となります。
◇
浄土真宗では「信心正因」という言葉があるように「信心を得ることが仏として生まれさせて頂く正因」と受け止めています。お念仏を称えて仏にならせて頂くのではなく、先ず、信心を頂くことなのです。
親鸞聖人は「信心は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(『一念多念証文』)と申され、阿弥陀如来さまが「あなたのことは必ず救うから、心配いらない」と仰る言葉を聞いて、ほんとかなと疑うのではなく、そのまま頂戴することですと仰います。また、他の書物では阿弥陀如来さまの「必ず救う、我にまかせよ」というこの真実の誓いを、ふたごころなく深く信じて疑わないことだと申しています。
ここでいう「救う」とは、病気が治るとか、経済的に恵まれるとか、受験に合格するとかいう私たちの欲望に類するものではなく、人間存在の根底から丸抱えで「どんなことが起きても必ず救うぞ」という救いなのです。
この誓いにすとんと頷くとき、あなたの往く先はお浄土(極楽)と定まると申されます。そして、このすとんと頷く気持ちも実は阿弥陀如来さまからの働き、はからいによるのだと言うのです。少しわかりにくいかもしれませんが、浄土真宗では「信心する」とは言わずに「信心を頂戴する」「信心を賜る」と申す理由がここにあります。
◇
この世の縁の尽きるとき
如来の浄土に生まれては
さとりの智慧を頂いて
あらゆるいのちを救います 『浄土真宗の救いのよろこび』より
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
2017年8月の朗読法話「死を受容した少女」
手元に『死をどう生きたか~私の心に残る人びと~』と題された古びた新書本があります。著者は日野原重明さん。昭和六十二年に求めているので三十年経っています。
この本は日野原さんが七十歳の頃に、ある製薬会社の冊子に連載していたものをまとめたとありました。内科医として四十五年余り携わってきて、主治医としてお世話をし、亡くなられた六百名の患者さんの中で、その方々の死を通して人間の生き方を教えられ、命の尊厳を印象付けられた十八名の方が紹介されています。
◇
その最初に記されていたのが、十六歳で死を受容した少女でした。
昭和十二年三月に京都大学医学部を卒業して、そのまま病院に残り、最初に医局長から担当を命じられたのが彼女との出遇いでした。四月中旬に母親に連れてこられ、検査の結果、結核性腹膜炎と診断され入院。彼女は貧困な家庭に育ったので、小学校を出ると彦根近くの紡績工場で母と一緒に働いていたそうです。[当時の義務教育は小学校まで]
◇
梅雨のころになると熱が高くお腹を壊す症状が続き、腹水も貯まってかなり苦しい状況でした。母親は生活費や入院費をねん出するために働かなければならず、来院して付き添うどころか、二週間に一回くらい見舞いに来るのが精一杯でした。
その頃、クリスチャンの日野原さんは日曜日には教会の礼拝に出席し、病院を離れていましたが、ある時、同僚から、「日野原先生は、日曜日だけはいつも病院に来られないのよ」と少女が寂しそうに言っていると聞きました。それからは日曜日でもかならず病棟に先に立ち寄り、患者さんに会ってから教会に出かけることにしたそうです。そして、その後の八十年にわたる習慣となったのでした。
七月に入ると容態はますます悪化し、嘔吐が続き血圧も下がり、モルヒネを注射。「今日は日曜日だからお母さんが昼から来られるから頑張りなさいよ」と激励すると少女は大きな眼を開いて言いました。「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも来て頂いてすみません。でも今日は、すっかりくたびれてしまいました」と言い、しばらく間を置いたのち、「私は、もう死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います」と。そしてまたしばらくして「先生、お母さんには心配をかけ続けで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんに、よろしく伝えてください」と頼み、合掌したそうです。息を引き取ったのはそれから間もなくとのことでした。。
◇
日野原さんは「なぜあの時、安心して成仏しなさい」「お母さんには、あなたの気持ちを充分に伝えてあげますよ」と言えなかったのか。そして、脈を診るよりも、どうしてもっと彼女の手を握ってあげなかったのか、と振り返っておられます。
「死を受容することは難しい。しかし十六歳の少女が死を受容し、美しい言葉で訣別したその事実を、あとからくる医師に伝えたい」と日野原さんは述べておられます。
◇
『仏説無量寿経』に「独り生れ独り死し、独り去り独り来る
(独生独死独去独来)」とあります。誰も付き従うもののない死
の実相を、この少女の悲しい別れは伝えてくれています。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
2017年5月の朗読法話「永遠不変の真理」
テレビや新聞のニュースでシリア情勢が報道され、毎日のように惨事が繰り広げられている様子が流れていますが、なにか遠くの国で起きている出来事という緊張感のないものに映っています。ですが、近日の北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)のミサイル発射は若い独裁者の故に、いつ何が起きても不思議ではないと、マレーシアでの殺害事件を通して感じ、あのキューバ危機以来の緊張を覚えるようになりました。◇
先月三日、ロシアのサンクトペテルブルクの地下鉄で起きたテロ行為の報道の時、インタビューに答えた方の言葉が印象に残っています。「何かが起きると、犠牲になるのはいつも罪のない市民です」と。
ロシアは日本にとっては思想の異なる言わば、厄介な国。北方領土問題は一向に進まず、いつものらりくらり。元々返還する気はないのでしょう。国と国の複雑な外交の下ですが、我々と同じ一般の人々は心穏やかにと願って小さな幸せを家族や友人と守っていこうと努力している、そのことを強く感じました。厄介な国、ロシアの人も思いは同じなのだと。
◇
戦争が起こるとどうなるか。「今やボタン戦争で、あっという間に人類は破滅する」と語られた話は横に置いて、第二次大戦によって起きた無数の惨事の一つをご紹介。
敗戦翌年、一九四六年の春、旧満州(中国北東部)の四平(しへい)に居た家族。父は徴兵され音信不通。砲火の中、母子五人が暮らしていた。やがて、七月に日本への引き揚げが決まり、家に日本人会の男性数人が来た。一歳の一番下の妹について、「長い旅に耐えられないから殺しなさい」と言い、液体の毒薬を渡された。母が抱き、小学六年の長男の僕がスプーンでのませると妹は死んだ。その後の幾つもの記憶を僕は失った。
心身共に不調だった母が荷車に横たわっていたのは覚えている。弟ふたりと共に貨車に乗せた。引き揚げ船出発地、現在の遼寧省の島に到着。病院で、母は畳の上に寝かされた。処方された薬を母はのんでいたがある日、僕は別の粉薬を医師から渡された。
僕がのませると、母は泡を吹いて死んでしまった。ぼうぜんとした僕。通夜で弟ふたりと僕は黙り込んだ。八月、三人で父母のふるさと、京都へ。祖母の懐に飛び込んだが、上の弟はすぐに病死。
「誰の子どもも殺させない。いつまでも平和を」と声を上げ続けている。
Mさん(八二歳)四月十七日付 朝日新聞
◇
お釈迦さまの言葉に「およそこの世において、怨みは怨みによってやむことはない。怨みを捨ててこそやむのである。これは永遠不変の真理である」(法句経)とあります。
怨みを捨てるというのは、誠に難しいことです。でも、怨みを煽って無謀な戦いに突き進むことは何としても避けなければなりません。愚かな権勢欲のために、ひとりひとり幸せを求めて生きている私たちの大切な人生が奪われてはたまりません。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。
2017年4月の朗読法話「足元の小さなしあわせ」
新年度を迎えました。それぞれ新しい環境に胸ふくらませて初々しく臨まれていることと思います。昨年来、過剰な時間外労働を反省して働き方の改善が叫ばれていますが、尊いいのちが失われることなく穏やかな環境でスタート出来るよう念じます。
◇
さて、「しあわせは自分のこころが決める」という言葉をお聞きになったことがあると思います。書家で、また数々の名言を世に出された相田みつをさんの言葉です。
豊かな環境に身を置いていても不満が消えない人もいれば、劣悪な環境でも心穏やかに過ごされる方もおられるでしょう。
昨年の暮れに亡くなられた渡辺和子さん(89)も名言を残された方ですが、『幸せはあなたの心が決める』という本を著わしています。渡辺さんのお父さまは陸軍教育総監を務めていた昭和11年2月26日(二・二六事件)に、青年将校らによって自宅で銃弾を浴びました。それを当時9歳の和子さんは目の前で見ていたのです。
幼い時の残酷すぎる経験がやがて信仰の道を歩ませ、また人々に愛を説き、与えられた環境や条件に対して、自分はどのようにそれを受け止めていくか、受け容れていくかが大切だと仰っています。
◇
作家・佐藤愛子さん(93)の『それでもこの世は悪くなかった』という近刊本に幸せについて次のような紹介があります。
何年か前のある日の夕方、新潟と会津を結ぶ小さな鉄道に乗っていたら、同じ車両に女子高生がふたり、向かい合って座り教科書を広げていたそうです。ガラーンとした車内で、他に乗客もいないところで、教科書の同じページを広げて、お互いに何か言い合って勉強をしていた。傍らにポッキーの箱が置いてあって、かわるがわるつまんでは勉強を続けている。
その光景を見て、ああ、いいものだなあと思ったそうです。
やがて、一人がポッキーの箱を持って電車を降りた。そういえば、残った方の彼女は少し少な目で食べていたなあと。残った方の彼女も、そこから2つ、3つ先に行った駅で降り、改札口を通って夕闇の中に消えて行ったそうです。
佐藤さんは「彼女はこれからどういう家に帰るのだろうか。母親は夕飯の支度をして待っているんだろうか。それとも、働きに出ていて、これから彼女が夕飯の支度をするんだろうか。親父はどんな人だろう。妹はいるのだろうか」などと思ううちに、何となしに胸がいっぱいになり、こう呼びかけたくなったといいます。
「あなたは今、明日の試験のことで頭が一杯で、何でこんな勉強せんならんのか、と思っているでしょう。けれども、あなたは今が一番幸せな時なのよ。あなたはそれを知らないでしょう。その知らないでいるということが、あなたの幸せなのです」と。
◇
お釈迦さまの言葉に「われは悩める人々の中にあって、悩みなく大いに楽しく生きよう。われは悩める人々の中にあって、悩みなく生活しよう」(法句経)とあります。
新年度を迎え、足元の小さなしあわせに気づきたく思います。
なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。